社 名 築山神社 相殿
鎮座地 山口県山口市上竪小路101
由   緒 ・ 沿   革
 当社は、現在山口県山口市堅小路に鎮座する築山神社の相殿に合祀されているが、もとは毛利氏によって、大内氏の氏寺である山口の氷上山興隆寺の境内に勧請された東照宮である。旧鎮座地名を冠して氷上東照宮とも興隆寺東照宮ともいう。
 東照宮の創祀の年代は明らかではないが、同寺真光院の御霊殿に日光門主天真法親王筆の御神号を安置したのに始まる、と伝えられるので、天真法親王が日光門主であった延宝八年から元禄三年(1680〜90)の間であろう。本格的な社殿の造営は、元文五年(1740)七月に着工し、寛保元年(1741)九月に上棟、翌二年四月二十一日に御宮成就安鎮供養が行われている。これより先、享保二十年(1735)七月、公寛法親王開眼の御神影が下着し、ひとまず護摩堂に安置されている。
 社殿は、宝殿・釣屋・拝殿のほかに、中門・随身門・鳥居・総門・御供所・番所・宝庫などがあり、かなりの規模であった。その後の修理なども藩の費用で行われている。別当は真光院で、付属の祠官二名も奉仕していた。寺領は千二百八十石、内東照宮神領三百石、公儀御代々御位牌供養料五百石であった。
 四月十七日の例祭には、藩主から太刀・馬代献備の使者のほか役人が遣わされ、正月・九月の祭礼には山口代官以下が参列している。
 興隆寺は周防国では唯一の天台宗の寺で、それだけに宗派では力を入れてその護持に努めたものと思われる。したがって形の上では毛利氏が奉斎したには違いないが、東照宮を勧請した主体は興隆寺であったと言えよう。
 明治三年、現在地に東照宮の社殿を移築して、大内義隆を祀る宝現霊社をこれに遷し、築山神社と改称した。主祭神は大内義隆、配祀は大内義尊以下、天文二十年の大内氏滅亡時に殉じた諸公卿諸士二十八人、相殿に大内氏代々の霊と東照宮を祀った。
 現存する社殿は、素木造りで、寛保二年に氷上に建立された東照宮の諸社殿のうち、本殿と拝殿が移転されたもので、参道の入り口には葵紋の付いた石灯籠と鳥居があり、いずれも社殿とともに移築されたものと思われる。
(家康公と全国の東照宮 高藤晴俊 著より)

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