社 名 | 掛川神社 | 相殿 |
鎮座地 | 高知県高知市薊野1375 | |
由 緒 ・ 沿 革 | ||
當神社は、大國主神、素盞男命、稲田姫命を奉斎し、相殿に東照神社(祭神・徳川家康公)瀧宮神社(祭神・未詳社伝云、事代主神、武内宿禰命)海津見神社(祭神・海津見神)を合祭してある。思ふに當神社鎮座の立石山(一名陽貴山)は浦戸湾の最奥部に面し附近平地の中に孤立した霊地で古来神霊鎮祭の地と推定せられる。 二代土佐藩主山内忠義公はその産土神である遠州掛川鎮座の牛頭天王宮を崇敬し土佐入国以来意の如く参詣の出来ないのを憂ひ寛永十八年六月十六日神道管領長上ト部兼里の供奉に依り掛川より此の地に奉還鎮祭した。 當時の宣命、祭文等は神社明細帳に記載され、同時忠義公奉納の太刀銘延壽国時は後年山内豊策公奉納の錦色太刀銘康光と共に、前者は大正六年四月五日、後者は大正十年四月三十日国宝に指定せられて居る 舊藩政中は城内八社の一で藩主直祭の神社であり、別當見龍院及び神主梅原安房守の権勢も亦盛んであった。明治維新の後神領は別當持として見龍院敷地と共に神佛分離に依り失ったが現境内は神社地として残った。明治元年辰三月改稱の達により懸川神社と改稱したが明治四十四年四月一日高知懸知事の許可を得て社名を掛川神社と訂正した。明治年間氏子なきため無格社となったので屡々昇格運動を計画したが実現されなかった。 明治以後も縣内各地に崇敬するもの多く現に崇敬者名簿に登載されて居るものは数百名であるが其他にも多くの崇敬者がある。 昭和二十一年二月ニ日国家管理を離れ同年四月二十五日神社規則を定め、同年五月六日神社本廰に所属し、同年六月二十日神社規則を地方長官に届出、同年七月八日宗教法人登記を完了した。(由緒書より) |