社 名 | 世良田東照宮 | 主祭神 |
鎮座地 | 群馬県太田市世良田町3119-1 | |
由 緒 ・ 沿 革 | ||
御祭神徳川家康公は天文11年(1542)戦国乱世の中、三河国岡崎の城主松平広忠の長男に生まれ、困難辛苦を乗り越え、乱世を治め、名実と共に天下人となり、2百数十年に亘る世界に類例のない平和国家と輝く文化の基礎を確立し、元和2年(1616)4月17日、75歳をもって薨去、神あがりせられた。 御遺命により2代将軍秀忠公は直ちに久能山(静岡県・久能山東照宮)に神葬され、翌年日光山に神柩が遷され日光東照社が造営された。 2代将軍家光公は祖父家康公を敬慕の念から日光東照社の社殿の造営を発願し、寛永13年(1636)その造り替えを行い、同17年には公の御墓所である奥社の造替に着手したが、徳川氏先祖の地・世良田にも奉斎すべく日光東照社の旧奥社(御廟・拝殿・唐門)の移建を長楽寺の住職も兼帯していた天海僧正に命じた。 世良田では、義季ゆかりの地に本殿を新たに造り日光の旧奥社拝殿を当宮拝殿とした。合わせて御宮の付属施設として太鼓門・上使門等も建立され、公の墓標とも言うべき御廟は公の本地仏薬師如来を祀る本地塔として社殿の脇に置き、彩色を狩野探幽等に委ねた。 寛永21年(1644)10月11日、社殿が落成すると日光東照社より家康公が生前、仏工に彫らせたと言う公の御神像が遷され、家光公御名代として大老酒井讃岐守忠勝(若狭小浜藩12万3千石)が参詣、御太刀・御馬を献納し遷座式が盛大に行われた。同年12月、幕府は神領2百石を当社に寄進し、祭祀・管理等を隣接の長楽寺を別当として命じた 正保2年(1645)朝廷より日光東照社に宮号の宣下、正一位が授けられ、全国の東照社は東照宮と称することになった。 以後、当宮は、社殿を始め祭器具その他、御宮に関する一切は将軍の名において新調・補修等が幕府によって行われて来た。 明治を迎え徳川幕府の崩壊により庇護主を失った当宮は以後衰微の一途を辿って来たが昭和31年6月、社殿三棟はじめ宝物等が国の重要文化財に指定され、同39年には国庫補助金によって2ヵ年に亘る大修復が、幕府による最後の修復以来、実に百二十有余年振りに施され、旧観を取り戻すに至った。 近年、除魔神事・御釿始め式等の特殊神事も行われる様になり、正月の初参り客を始め社頭は盛況を呈して来ている。(由緒書より) |