社 名 滝山東照宮 主祭神
鎮座地 愛知県岡崎市滝山町字山篭百十七番地
御   由   緒 ・ 沿   革
 当宮は人皇百九代御光明天皇の御字正保元年(1644)将軍家光公、酒井讃岐守(忠勝)、松平右衛門大夫(正綱)、青龍院亮盛の三人を召出され、権現様御誕生の地、岡崎城の近所に御宮観請遊ばされたくし幸い瀧山寺は古跡にして岡崎要害の所権現様御在城の節御信心の霊地なる故彼地に於て御宮観請遊ばさるべきの旨上意あり即ち松平右衛門大夫を御宮地見分の為め差遣はされ、正保二年五月五普請を始め同三年九月御宮営を終り十七日に正遷宮同年十二月十七日神領二百石を寄附せられ・・・・・・・・・云々とあるのが創立の起因である。
御造営の御掛りとしては御老中酒井讃岐守、御見分奉行松平右衛門大夫、寺社奉行松平出雲守惣奉行竹中左京亮、御大工木原木允、鈴木修理、御小工鈴木三郎右衛門等があたった。
 九月十七日の正遷宮には公方様御名代松平出雲守が御進物として真太刀正恒一振御馬一匹、三束三巻、御樽一荷、御箱肴両種を、大納言様御名代品川内膳正が真太刀長光一振、御馬一匹を進献され尾張、紀伊、水戸御三家よりは使者の代拝があり当日の御警固は岡崎城主水野監物が当った。
 その後寛文十一辛亥年七月(1671)元禄十丁丑年九月(1697)元文二丁巳年九月(1737)明和元甲申年(1764)天明元辛申年十月(1781)寛永十二庚申年四月(1800)天保四癸巳九月(1833)の七回に亘り幕府のによって社殿の修理を行うなど将軍家の崇敬殊に深かった。岡崎城主を始めとして諸大名の献納する石燈篭は境内に林立して往時の崇敬の如何に篤かったかを偲ぶぶ事が出来る。
 明治維新となるや神仏分離という一大改革に遭遇し創立以来滝山寺が別当職を兼務して来たのを改めて明治六年四月より神官を補任せられ無格社として存置された
 大正五年五月に郷中の白山社、日吉社を合祀し村社格となり社名を常磐神社と改め同十年一月更に稲荷社、若一皇子社、荒神社、神明社の四社を合祀するに及び滝郷の氏神として祭事を奉仕する事となった。昭和二十八年十一月に本殿はじめ五棟、石鳥居、石柵、銅製燈篭等が国の重要文化財に指定せられる事となり翌二十九年八月十七日に旧社名の滝山東照宮に復称した。
 天保四年より百三十余年の永き歳月、風雨に荒廃した社殿も今度文化庁の指導のもとに昭和四十四年七月より四十六年九月に亘り総額5,125万円の巨費を以って復元の大修理を行った。(由緒書より)         

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