北海道東照宮写真
社 名 北海道東照宮 主祭神
鎮座地 北海道函館市陣川82-153
由  緒 ・ 沿  革
 函館東照宮の名で知られた当社は、寛政年間(1789〜1801)に日高郡様似の等樹院に御神号の軸を奉斎したのに始まると伝えられる。しかし等樹院の建立は文化元年(1804)であるので、寛政年間とあるのは少々疑問であるが、寛政12年に蝦夷地が幕府の直轄地になっているので、あるいはその時期に早くも東照宮の奉斎の事実があったかも知れない。
 等樹院は、有珠善光寺・厚岸国泰寺とともに、幕府の保護を受けた蝦夷三官寺の一つで、道内屈指の名刹として知られた。開山は文化元年、初代住職は上総国芝山観音寺の秀暁で、幕府は米百俵・手当金四十八両・扶持米十二人扶持米を支給、文政五年(1822)には松前藩領となるが、従前同様の寺禄を支給された。
 等樹院における東照宮の奉斎の状況は全く明らかではないが、同寺は天台宗であり、山王一実神道による祭祀が行われていたものと思われる。
 幕末に至り元治元年(1864)に、亀田の地に函館奉行の役所の土塁・五稜郭が完成すると東北の鬼門に当たる上山村に城郭ならびに蝦夷地の鎮護として東照宮を勧請することになり、あわせて村名も神山村と改められた。
 この遷座に当たって、仁孝天皇宸筆の東照大権現の勅額が下賜それた。また東照宮の造営に献金した町役人その他へは、17日に葵紋付杯が下されている。
 それ以後、毎月朔・15・17日および五節句などの式日には、皇室の安泰・将軍家の武運長久・四海静謐・五穀成就・万民快楽が祈願され、奉行所の役人や地元の町民が多数参拝している。当時の緊張した蝦夷地の状況を考えれば、戦国乱世を統一し泰平の御代を実現した東照宮の神徳に対して、熱い期待があったことは十分に頷けよう。
 しかし明治2年の函館戦争でいっさいが灰に帰した。記録によれば、同年5月1日には、砲声の響くなかで月次祭の神事が行われたが、10日には砲火を受けて社殿は焼失、辛うじて御神体だけを奉じて、神山村奥の板倉へ奉遷した。その後は、元の社地に仮宮を建て祭祀を続けたが、明治7年、函館市中の人々が神山では遠すぎるので近くに遷してほしいとの願いにより函館の谷地頭に移され、さらに同11年南新町移遷を繰り返したが、翌12年蓬 町(後に宝来町)に遷座してから後は120年間この地に鎮座した。平成3年、地元崇敬者との協議の結果元の鎮座地に近い陣川に移転することになり、同4年5月7日盛大に遷座祭が執行それ、これを期に社名(通称)も北海道東照宮と改めることになった。
(家康公と全国の東照宮 高藤晴俊 著より)

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