芝東照宮写真
社 名 芝東照宮 主祭神
鎮座地 東京都港区芝公園4-8-10
御  由  緒 ・ 沿  革
 当宮は、増上寺境内に勧請された。増上寺は、天正十八年(1590)家康公の江戸入府の折源誉存応が公の帰依を得て徳川家の菩提寺に定められた。
当時は日比谷にあったが慶長三年(1598)江戸城拡張工事に伴い、現在地に移転した。以後幕府の保護の下、関東浄土宗寺院の総本山となり、実質的に同宗第一の実力を持った。
 元和二年(1616)、家康公が薨去されると、その遺言により同寺において法要が行われたが、十月二日には、霊廟造営の工事が始まり、翌年二月竣工。建物の大きさは六十六州の国を永く守るために、との遺言で六十六畳敷となり、敷地も本堂後方との遺言によって、丸山の地に定められた。竣工後の三月十七日には二代将軍日秀忠が参拝している。この増上寺境内の家康公を祀る廟は、一般に安国殿と称された。これは、家康公の法名「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」によるものである。
 安国殿の御神体は、慶長六年(1601)正月、六十歳を迎えられた家康公が自ら命じて彫刻された等身大の寿像で、公は生前、駿府城において自らこの像の祭儀を行っていた。死に臨んで公は、折から駿府城に見舞いに参上した増上寺の僧侶(観智国師たち三高僧)に「像を増上寺に鎮座させ、永世国家を守護なさん。」と仰せになり、この像を同寺をに祀るよう遺言していたもので、安国殿の創建の時に造営奉行であった土居大炊助利勝(後の大老・土井大炊頭利勝)の手により駿府から護り送られたものである。祭祀は江戸時代を通じて別当の安立院が奉仕した。
 その後、寛永十年(1633)には安国殿を造営し旧安国殿は開山堂となったが寛永十八年(1641)には家光によって三度目の造営がなされ、敷地も丸山の東下の地に移された。規模は壮大で、惣門は駿府城から移したもの、鳥居は筑前国(福岡県)福岡藩主の黒田侍従右衛門佐忠之が奉納。拝殿、唐門、透塀をめぐらした中に、五間四方の本殿があり、内外部とも漆塗・極彩色の豪壮・華麗なものであった。なお、増上寺は徳川家の菩提寺であった関係から、寛永十年には、二代将軍秀忠の霊廟が境内に創建された。その後六代家宣・七代家継・九代家重・十二代家慶・十四代家茂の霊廟も造営されている。従って江戸時代を通じて将軍の参詣は数多く行われていた。
 安国殿は明治初期の神仏分離のため、増上寺から分かれて東照宮を称し、御神像を本殿に安置・奉斎した。明治六年(1873)には郷社に列し、社殿は、寛永十八年の造替当時のものが維持しており、本殿は大正四年(1915)旧国宝に指定され、昭和五年(1930)天然記念物に指定された神域内の公孫樹と共に、伽藍の美を誇っていたが、昭和二十年(1945)五月ニ十日の戦災により、御神像の寿像と天然記念物の公孫樹を除いて、社殿悉く焼失した。
 戦後、昭和三十六年(1961)、氏子・崇敬者により復興奉賛会が結成され、一方、寿像は、同三十八年(1963)東京都重要文化財に指定されて、仮還宮の後昭和四十四年(1969)八月十七日、遂に神殿の完成を見て今日に至る。(由緒書より)

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