霊丘神社写真
社 名 霊丘神社 主祭神
鎮座地 長崎県島原市弁天町2-7341
由  緒 ・ 沿  革
 長崎県島原市弁天町に鎮座する当社は、現在霊丘神社と称するが、島原城主の高力氏が勧請したのに始まると伝えられる。
 高力氏は徳川譜代の家臣で、清長は家康公に従い、天正18年(1590)武蔵岩槻城主となり2万石を領した。清長の孫忠房は、寛永15年(1638)に松倉氏改易の後を受けて島原城主となり四万石を領し、島原乱で荒廃した社寺を復興し、他領から百姓を招き入れて農村の再建にも努力している。東照宮の勧請も民心の安定を願ってのこと、と言われている。明暦元年、隆長がその後を継だが、圧政と矯奢を咎められ、寛文8年(1668)に領地を没収された。その後を受けて松平忠房が入部し、以後歴代藩主が崇敬を捧げた。
 この一族は松平宗家3代の信光の孫忠定を始祖とする深溝松平氏で、藩祖忠利が慶長6年に三河深溝に新知1万石を与えられ、同17年に三河吉田に移った。寛永9年に2代忠房が家督を継ぎ、丹波福知山を経て寛文9年に島原6万5千9百石を賜った。その後、寛延三年には下野宇都宮に転じたが、安永三年再び島原に戻り、明治に及んでいる。
 現在の社地は霊丘公園のなかにある。古くは権現山と称し、海岸伝いにしか行けなかったが寛政4年(1792)の眉山の崩壊によって埋め立てられ、現在の地形となった。明治16年、社殿を新築して始祖忠定以下六柱を合祀し、社名を霊丘神社と改称した。
(家康公と全国の東照宮 高藤晴俊著より)

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