土津神社
社 名 土 津 神 社
鎮座地 福島県耶麻郡猪苗代町字見祢山
祭 神 保科正之公
御   由   緒 ・ 沿   革
  土津神社の御祭神である土津霊神・保科正之公は、二代将軍徳川秀忠の第四子、三代将軍家光の弟で、高遠藩藩主・保科正光の養子であり、寛永ニ十年(1643)会津に封ぜられ会津松平家の始祖となった。
  晩年にいたるまで神道を尊信し、吉川惟足を師として専らト部家神道の伝を学び、道の奥義を極められた。
  寛文十一年(1671)公は惟足から霊号を「土津」と奉られた。土津の意は、惟足によると、土(つち、はに)は宇宙構成要素の根元であり、万物の始めと終りであり、信実の主体である。その道理を公は体得された。また公は会津の領主であるから「津」の字に無関係ではない。故にこのニつから「土津」と申し上げたといっている。言い替えれば、宇宙の万里を究められた会津藩主の意といってもよいのである
  公は、この時、「余の没後は神道の礼をもって磐椅神社の神地に葬ってもらいたい」という遺書を老臣たちに与えて、御子・正経公に伝えさせた。
  寛文十二年(1672)八月二十一日、公は自ら猪苗代に参られ見祢山に登って墓地を定め、「我が身はここに納めてくれ。」と家臣に命じられた。そして「万代と祝ひ来にけり会津山高天の原にすみかもとめて」と詠まれた。惟足はかたわらにあって、御歌に応えて「君ここに千歳の後のすみところニ葉の松は雲をしのがん」と詠じた。公はことのほか感じ入られて、帰城された。
  帰途公はこの年没した大老田中正玄の墓に立寄られた。
  同年(1672)十二月十六日、江戸に戻られた公は容態すぐれず、老臣・友松氏興を病床にお呼びになり葬事奉行を命じられ、戸板真五郎を副役とし後のことを託された。同月十八日霊神ご逝去。そこで、友松氏興は公の遺命とおり神道の礼を尽くして見祢山に葬り、惟足を招いて葬事を行なわせた。
  延宝元年(1673)、神祇管領長・吉田兼連がご神体ほ奉じて仮殿に安置した。この時より、壮大にも壮麗な神殿の営築を開始し、延宝三年(1675)八月十九日竣工。同二十三日正遷宮の式を行ないご神体ほ正殿に安鎮し、磐椅神社の末社とした。
  土津神社は、神殿・回廊など奥日光又は東北の日光といわれるほど壮厳壮麗であったが、明治の戊辰の兵火で社殿がことごとく焼失した。今の社殿は明治(1880)七月の造営に成るものである。
(由緒書より)
                  



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